沖正弘の言葉
2024年1月11日木曜日
アル・ホセイ二
2023年4月9日日曜日
アル・ホセイニ-
- 若き日の沖先生が諜報員として中央アジアに潜伏していて捕えられ地下牢に入れられた際、同じく牢に捕えられていた老人に
「おおいに笑いおおいに感謝しなさい。それが正しい生き方だ。」
「宇宙そのものが神である。君は生きているのではない。生かされているのだ。」
そして「避けられぬ運命なら、処刑もまた楽しい。」
と静かに微笑み沖青年を驚愕させた。
その老人の正体は、イラン宗教界の当時の最高指導者アル・ホセイニ-氏で有った事が
後に判明した。この出会いがヨガへの道へ進ませた -(以上、体験談終わり)
2023年3月13日月曜日
沖道ヨガ十段階
八支則で出てこない、沖道ヨガ独自の段階として
・バクティ(信仰行法)
条件を抜きにして、自己を他に捧げる行い
・ブッティー(仏性開発行法)
自分の中にも他者の中にも、自然にも物にも、全てのものに価値(神)を見出し、尊ぶ行い。
・プラサード(歓喜法悦行法)
自分の喜びと、他者の喜びと、神さま(自然調和)の喜びを一致させる行い。
があります。
全てのものに、神を見出す練習。
「生命即神」
神とは即ち命である。とても明快な答え。
私の中にも神がいて
他者の中にも神がいて
動物の中にも、植物の中にも神がいる。
紙やペンなどの物質的な物も、もとは命あるものを材料に姿を変えたもの。つまり神さまから生まれたもの。
全てのものに、神を見出す練習。
人にも物にも、自分に喜びを与える経験にも、苦しみを与える経験にも。
それがイーシュワラプラニダーナ。
ヨガは神と自分とを繋げること。
でもそれは単なるスピリチュアル的な話ではない。
自分の体をテキストとし、自分の生命、即ち神が輝く行いが出来ているかを見極めること。自分の内なる神、即ち生命を学ぶこと。
その行いとは、ヨガのポーズを指すのではない。
食事は?睡眠は?お掃除は?歩き方は?言葉使いは?思考は?、、、etc
それらを生命が輝くように行えているのか?
その観察の中で見出した氣づきは、自分を助ける智慧となる。
関わりの中で生きている私たち人間は、必ず誰かの力を借りて生きているし、他の命を頂きながら生きていること。
そう考えると、自分の力で生きているなんて奢りは無くなり、謙虚になる。感謝する。
ひとりぼっちだなんて、寂しいことも考えくなる。
他に助けられ、生かされているという感覚は、私に安心感を与える。
自ずと他に見いだす神に、お返しをしようという氣持ちになる。
龍村先生から教わったヨガは、生き方そのものだ。
そして何よりも学びになったのは、龍村先生の佇まいや在り方。
言葉や態度に誇張も偏りも無く、他を否定することも、何かを贔屓することも無く、常に中庸にある。
浮きも沈みもせず、常に平常心。
龍村先生はサラリとそんな生き方をされていますが、常にそう在ることは、実際にはとても難しいことだと、誰もがご存じの通り。
その在り方を側で見させて頂くことで、ヨガの真髄が、静かにされど深く、私に浸透していく時間でした。
沖正弘先生の言葉
「無理するな、無駄するな、続けよ」
「信じるな、疑うな、確かめよ」
これは、今の私のヨガプラクティスにおける指針にもなっています。
そして実技の講義中に、龍村先生から言われた、とても印象的な言葉があります。
「おまえは神か!」
もともと、沖先生のお言葉だそうです。
私がある行法を指示された時に、「これは出来ません、、、」とお伝えした時に言われた言葉です。
やってもいないのに、出来るか出来ないかわかるなんて、おまえは何でも知っている神様なのか?・・・と。
実際に勇気を出してやったら、結果出来たんですね。
そういうことですよね、人生って。
自分を疑わず、とにかく確かめようと思った瞬間でした。
龍村先生から頂いた教えは、現在私がお伝えしているヨガの、主軸となっております。
自分の中でふわっとした伝え方しか出来なかったものが、この学びにより、より明確にわかりやすい言葉で、表現できるようになりました。
この教えを龍村先生から学べたことは、私にとってとても幸運なことでした。
2021年9月4日土曜日
心を醜くし、汚すものは何か
「心を醜くし、汚すものは何か」
それは一体何でしょうか? その第一となるものが自分と他人という区別があるというような差別感を持つことであります。
しかし、段々と真実がわかってきて、心の目が開かれてきますと、自分とか他人とかいうような区別ができるものはないのだということに気づいてきます。
たとえば自分の体という他のものと区別できるものがあるかのように思っている人がいます。けれども、静かに深く広く考えてみますと、実は自分だけの体というのは無いのです。
この自分の体は無いのだという真理に気づいた日本の古聖は「もったいない」という言葉を発明しておられます。「もっ体無い」すなわち無体であるということの真実は深く考えて真理に気づいてみたら、自分というものは、すべての他の御恩の集まりであった、他の協力の集まりであったということであります。他に無縁の自分はないのです。他の協力の集まりとしての他の犠牲の集まりで形づくられている自分であり、他に供養されて生かされて生きている自分であることに気づくことが悟りの第一歩です。
この事実と真理に気がついてきた時に、自分は単なる自分でない、他からの預かりものの自分であること、神からの借りものの自分であることも自覚できるのです。
そうしてこういう風に心の眼の開いた時に尊い自分なのだなあ、もったいない自分なのだなあという感じも自然におこってくるのです。
尊さを感じ、大切にしなければならないのだということを感じた時にはじめて起こってくるのが正しい愛の心です。
正しく自他を尊び、敬い、そうして大切にしようとする心は、宗教心からでないと生じません。
普通心で自分を愛するということは自己中心主義に陥りやすいのです。
しかし、宗教的な観点に立って自他をみるとき、「お互いはお互い同士のお陰によって存在している一体のものである」、ということがわかってきます。
この真理は自分は他人であり、他人は自分であるともいえます。
このように自他の真理を自覚できた時に、自他共に大切にしなければ、という愛の心が自然的におこってくるのであります。
このように尊ぶ心、敬う心が生じてきた時に、本当に愛するとはどういう風にすればよいのかということもわかってくるのであります。
自他なしの心は自分も他人も一つの自分なのだということに気づいた心ですから、この心には相手の喜びがそのまま自分の喜びになり、相手の悲しみがそのまま自分の悲しみとなります。この心を隋喜隋悲の心といい、あわせて慈悲の心といいます。
彼の悲しみはそのまま自分の悲しみであり、彼の喜びはそのまま自分の喜びであるの心になってこそ始めて真の愛が行じられるのではないでしょうか。
彼が良くなることがそのまま自分の喜びとなり、彼が正しくなることがそのまま自分の喜びの心となってのみ真の愛の心が生じるのですから、真の愛の行者になるには、自分だとか、他人だとか、好き嫌いというように差別的に対立する心があってはだめです。
「積極性」
「積極性」
沖ヨガの特色は積極性である。積極性とは、すべてをいいほうへ解釈することである。
すべてを尊いもの、価値あるもの、必要なものとしてみるのである。
即ち、すべてを良きものに変える生き方をすることが、宗教的生き方である。
敵も味方に変える。毒も薬に変える。嫌いなものも好きに変える。不幸も幸福に変える。
損も利益に変えるのである。
すべてのものは生命の必然性によって生み出され、それぞれに個性、使命が与えられている。だから、自分の都合、条件に拘泥して他を否定するのでなく、一つ一つの存在価値を認め、それを良きものに変えていく生き方がすべてを生かすのであり、これが本当の宗教的生き方である。
「毒を薬に、敵を味方に」
「毒を薬に、敵を味方に」
良いように活用すれば、敵も味方に、毒も薬に変えられるのです。
敵を敵だと思うのがおかしいのです。
何かを気づかせてくださる教えとしての恩人であるという感謝の態度で接すれば、すべてのものを味方に変えることができます。
すべてのものは、自分の味方扱いをすることによってよき協力者にすることができます。
これを「観音行」と言い、これは、「自分が見たようにものが見え、扱ったように相手がなり、求めたものが与えられ、認めたものが現れる」という意味です。
ヨガでは、このことを「三界は唯心の所現である」と教えています。
癪にさわるような人でもよい友としてあたたかい心で扱ってごらんなさい。
必ず良い友人に変わってきますから。
生命即神
人間は一人一人がかけがえのない尊い存在であり、人生はたった1度の尊い人生ですから、人間として本当の生き方をしていれば、今日の一日、今の一瞬がいかに尊いものであるかを感じ取ることができます。
この本当の生き方をするためには、「私たちにとって一番大切なものとは何か」を悟り、その大切なものを最も大切にする生き方を、生活の中で実行していかなければなりません。
一番大切なものとは、それがなければ一切のものは存在し得ない根本的なもの、すなわち生命のことです。
私たちは、生命そのものの存在です。
生命によって生み出され、生かされて生きている存在です。
このことを理解できたときに、生命ある総てのものに尊さを見ることができ、そこに神の働きが存在することが理解できるのです。
生命すなわち神は、私たちに備わっている能力が最高に発揮できる状態の時、最もよろこんで下さいます。
よろこびを得るためには、人間として自然で無理のない生き方をすること、すなわち条件心を除いて、とらわれない心で他に自己を捧げる生き方をすることです。
また、心身に適応力をつけ、積極的な生き方を心がける。
この生命の法則に沿った真実の生き方が、よろこびにつながる生き方なのです。
(沖道ヨガ生活行持集より)
2021年9月3日金曜日
「捨の心」
「捨の心」 沖 正弘
宗教の心とは、捨の心である。捨の心とは求めぬ心である。離れた心である。忘れた心である。気にかけぬ心である。ひっかからない心である。執着せぬ心である。そのまま受け取る心である。
捨の心は強者の心である。捨てたら困りはしないかと計らう弱者に、捨てたら入らなないのではないかと憂うる弱者に、捨てきる、まかせきる行為は不可能である。
絶対への信ある者にして始めて、自由に捨て得るのである。生かされて生きているのだ、与えられて生きているのだの悟りが捨の心を生み出す。生かされる自信のある者は、自由に捨て得るのである。与えられ守られると信じて居る者は自由に捨て得るのである。捨て得る者の胸中には、求めへの悶えはない。与えられざる事への焦りはない。奪われる事への憂いもないのである。唯受け取るだけである。まかせきるだけである。与えられた縁に無常の価値を認めている者の心境は、常に平安である。常に法悦である。一切に総感謝である。日々好日である。
不信なるが故に持つ事にこだわるのである。与えられる事を知らないが故に持つ事を焦るのである。持つ心は奪われはしまいかの不安を生みだす。持つ心は与えられない事への不平を生みだす。持つ心は悪ありとのおそれ心を生みだす。持つ心は他をこばむ心を生みだす。持つ心は他がそれを持つ事を許さない。持つ心の持ち主は常に心乱して他と争はなければならないのである。持つ心は更にこれを持ちつづけたい心になる。この心は、無くなりはしないかの不安で常時おののいているのである。一物を持つ手に他物を持つ事は許されない。何者も持たざる手にのみ、すべてを持つ自由を許されるのである。すべてを受けとる権利を与えられるのである。
捨てた心は何時も空である。空なるが故にすべてがそのまま真実に入ってくるのである。持った心は偏っている。執した心は傾いている。閉ざした心に真実は映じない。偏った心にも真実は映じない。捨の心のみ絶対の自由はあるのだ。条件を捨てている。無条件の心にはすべてが善と映じる。要求を捨てている。無要求の心にはすべてが喜びの対象となるのである。立場を捨てている、無立場の者に対者との争いは生じないのである。捨の心の持ち主は常に平静である。寂の味わいである。一切無畏の生活である。
捨の心は、受け取る心である。生かされて生きてゆこうの絶対信である。捨の心に恩を売る心はない、すべてにおかげを感じているのである。すべてに恩を味わっているのである。すべてに愛を読みとっているのである。
打算を捨てた心には、人生すべてがそのまま遊びである。生活が遊である。仕事が遊である。遊なるが故に何時もたのしいのである。遊なるが故に唯物心に行じているのである。捨の心に好嫌はない、成否はない、唯生きるのみ、唯行じるのみ。
成否を捨てた心に苦しみはない。結果を任せた心に不安はない。唯与えられるままに生きる心に焦りはない。常時不動心である、悠々である、自然である。捨の心は神心をそのまま拝受する心である。捨の心なるが故にすべてに合掌している。任せきって唯努力をしている。この捨の心に、すべては生かされるのである。この捨の生活に神<生命>の花は開くのである。願を捨て心を支配する者はいない、願わない故に誰も縛らない、心は無礙である、捨の心は自由である、捨の心が解脱への門である。捨の心は、何時も豊である、持たざるが故にすべての物が自由に自分の物となってくれるが故に豊なのである。
捨の心は三昧の心である、何事にもひっかからない、何事にもこだわらない、唯仕事に三昧している、唯生活を味わっている。持たざるが故に、すべてのものはそのまま流れてゆく、故に日々生命が生まれでてくるのである、執する時にはすべて死んでしまうのである。捨の心は生きた心である。生かす働きである。
執なき所に、一切は生きるのである。執すると善悪を混同してしまう。執なき時にのみ一切に素直に応じうるのである。捨の心に苦しみはない。与えられるままに受け取ればよいのだ。何物からもつかまえられてはならない。つかむから苦しい、つかまれるから苦しい。逆らうが故に苦しいのである。
捨てるのである。捨てるのである。
捨てきった時のみ真実は入ってくるのである。
『求道実行』<ヨガ研修会発行>より