2021年9月4日土曜日

心を醜くし、汚すものは何か

「心を醜くし、汚すものは何か」

それは一体何でしょうか? その第一となるものが自分と他人という区別があるというような差別感を持つことであります。
しかし、段々と真実がわかってきて、心の目が開かれてきますと、自分とか他人とかいうような区別ができるものはないのだということに気づいてきます。

たとえば自分の体という他のものと区別できるものがあるかのように思っている人がいます。けれども、静かに深く広く考えてみますと、実は自分だけの体というのは無いのです。

この自分の体は無いのだという真理に気づいた日本の古聖は「もったいない」という言葉を発明しておられます。「もっ体無い」すなわち無体であるということの真実は深く考えて真理に気づいてみたら、自分というものは、すべての他の御恩の集まりであった、他の協力の集まりであったということであります。他に無縁の自分はないのです。他の協力の集まりとしての他の犠牲の集まりで形づくられている自分であり、他に供養されて生かされて生きている自分であることに気づくことが悟りの第一歩です。

この事実と真理に気がついてきた時に、自分は単なる自分でない、他からの預かりものの自分であること、神からの借りものの自分であることも自覚できるのです。
そうしてこういう風に心の眼の開いた時に尊い自分なのだなあ、もったいない自分なのだなあという感じも自然におこってくるのです。

尊さを感じ、大切にしなければならないのだということを感じた時にはじめて起こってくるのが正しい愛の心です。

正しく自他を尊び、敬い、そうして大切にしようとする心は、宗教心からでないと生じません。

普通心で自分を愛するということは自己中心主義に陥りやすいのです。

しかし、宗教的な観点に立って自他をみるとき、「お互いはお互い同士のお陰によって存在している一体のものである」、ということがわかってきます。

この真理は自分は他人であり、他人は自分であるともいえます。
このように自他の真理を自覚できた時に、自他共に大切にしなければ、という愛の心が自然的におこってくるのであります。

このように尊ぶ心、敬う心が生じてきた時に、本当に愛するとはどういう風にすればよいのかということもわかってくるのであります。

自他なしの心は自分も他人も一つの自分なのだということに気づいた心ですから、この心には相手の喜びがそのまま自分の喜びになり、相手の悲しみがそのまま自分の悲しみとなります。この心を隋喜隋悲の心といい、あわせて慈悲の心といいます。

彼の悲しみはそのまま自分の悲しみであり、彼の喜びはそのまま自分の喜びであるの心になってこそ始めて真の愛が行じられるのではないでしょうか。 

彼が良くなることがそのまま自分の喜びとなり、彼が正しくなることがそのまま自分の喜びの心となってのみ真の愛の心が生じるのですから、真の愛の行者になるには、自分だとか、他人だとか、好き嫌いというように差別的に対立する心があってはだめです。

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